修養法(断食編)五箇条
@呼吸法による丹田充足による、空腹感の解消
Aクンダリニーの上昇開華による、時間観の解消
B日光調息法による、肉体の活性
C月光調息法による、精神の安定
D神佛への献身による、こころの純化
以上の五箇条のそろわない断食修養はただの狂気。
以上の五箇条をそなえた断食修養は
肉体を浄と化す。
心を醒と嘉す。
魂を昇と香す。
199*年10月6日。 タイ国において十日間のモナスタリー・コース/沈黙行と、それと前後する坐禅行(計約一ヶ月)を経て、インドに渡った。インド西北部・ガンジス河上流にあたるリシュケーシュ(ヨーガの聖地)に移り、ヨガニケタン(ヨーガ・アシュラム)に入る。 10月6日〜10月30日。 瞑想修練。呼吸法、手印法などで心身意をととのえ、丹田に気/生命エネルギーの意識的凝集塊(以下神密丹)を、練り続ける(21世紀瞑想参照)。 10月31日。 ノーズクリーニング。胃・小腸・大腸を洗浄する。 *胃・小腸・大腸の洗浄とは、大量の水を短時間で飲み、強制的に下痢の症状を起こすことによって、腸内の便ばかりか、腸壁の宿便(しゅくべん)をも、体外に排泄するヨーガの行法である。 *その方法は、水8〜10リットルを2・30回に分けて飲み(一回にコップ3杯程度)、その度に5&6のヨーガのポーズをとって腸内を刺激し、便意を覚えるのをまって排便する。最後はただの水になる。 *水は2時間程度で飲みきる/それ以上の時間をかけると尿として出てしまう。若干の塩やレモンなどを加えると飲みやすくなる。 11月1日。断食前日。 呼吸法により、神密丹が肉体上で感触をともなって実感される。 食事は昼食のみとる。 11月2日。断食初日。 昼食を最後に断食に入る。 *意識して断食に入ったというよりも、肉体自体が断食を選んだかのように自然な流れであった。 11月3日。断食2日目。 固形物の摂取はやめるが、水分の摂取としてチャイ(インドで日常的に飲まれているミルクティ)を飲む。 これ以降、断食中に取る水分として、水、白湯、ブラックティなどもためすが、 *水/インドの水は硬水であったため、断食が進むにつれ、石を飲むかのようにノドを通らなくなった。 *白湯/水が駄目だったので沸かしてみたが、結局変わりなかった。 *ブラックティ/すぐに胃があれてしまった。 などの紆余曲折をへて、結局粉ミルクかギー(精製したバター)を少量まぜることで紅茶を胃にやさしくして飲むことにした。 一日0〜3杯。 11月4日。断食3日目。 ネバリをもって自覚されるようになった神密丹を、小周天をして体内に巡らせ、大周天に発展させる。 *丹と呼ばれる気のかたまりは/はじめは柔らかく、しだいに珠(たま)として形成り、さらに自在な形となって自覚される。 *午前中の瞑想でシリコン状に実感された神密丹は、午後になると尾てい骨下にて座布団ほどに自覚され、夕刻には珠として百会から頭上に出す。 11月5日。断食4日目。 断食3日目・4日目あたりが、飢餓感をおぼえる最初のピークである。急に立ち上がると目眩がする。 呼吸法で下丹田に神密丹をためて、空腹感を解消する(21世紀瞑想参照)。 *下丹田/ヘソ下9センチ、体内3センチあたりを中心とする、生命エネルギーのたまる場所。 11月6日。断食5日目。 グンダリニーを上昇させ、時間という観念を解消する(21世紀瞑想参照)。 *クンダリニー/「螺旋」を意味するクンダラと「燃える、焼く」 を意味するクンドを語源とする。 クンダリニーは通常、蛇がとぐろをまいた状態(螺旋状)で人間の尾て い骨に霊的エネルギーとして位置しているが、いったん覚醒すると、背骨にそって上昇を始め、人体に在るとされる7つのチャクラを整え、人間の精神に霊的統一性をもたらす。 11月7日。断食6日目。 朝夕かなり冷え込んできたので、風邪をひかないように毛布をかりる。 満月の夜。月光調息法をして精神を鎮める(21世紀瞑想参照)。 11月8日。断食7日目。 日中の暖かな時間をえらんで、日光調息法をして肉体を活性化する(21世紀瞑想参照)。 11月9日。断食8日目。 空腹感、疲労感ともになく、瞑想の調子も安定する。 神密宝珠印を結んで、氣を下丹田にさらに集中させる(神密座法・神密印参照)。 11月10日。断食9日目。 クンダリニーの上昇良好。呼吸法を駆使して、背骨の中心を上昇するエネルギーの流れをスムーズにする。 11月11日。断食10日目。 クンダリニーの上昇量に比例して、百会の開きがさらに大きくなる。百会から出神した意識は神密如来と化し、純粋な光の中に溶け込んでいく。 11月12日。断食11日目。 うすいお茶でもやはり胃に負担になるのか、口内、唇の内側が荒れていた。お腹にガスがたまる。 11月13日。断食12日目。 クンダリニーの上昇を止めると、とたんに身体が普段の数倍重く感じられる。 11月14日。断食13日目。 神密丹に意識を収め、大周天をして百会から出神する。 11月15日。断食14日目。 目を覚ましていても、身体は眠っているような感覚。 11月16日。断食15日目。 意識的にクンダリニーを上昇させるにしても、その流れは心身と連動させなければ、帰って逆効果になる。 一昨日の出神の反動のためか、強い睡魔が一日中続く。 11月17日。断食16日目。 神密流呼吸法はすばらしい。 たった一回で一転体中の疲れがことごとく消え去った。 11月18日。断食17日目。 夢の中でも断食中。 四方の壁が光りの滝からなる修養道場の中で、修養者達はそれをグラスですくって飲んでいた。 11月19日。断食18日目。 太陽の調息法に精を出す。 11月20日。断食19日目。 ハプニング。 なんと口をヒモで結んでいたバックを開けると、中からコブラが鎌首を持ち上げた。30センチほどであったが、どうやって入り込んだのだろう? ほうきで外に掃き出す。 11月21日。断食20日目。 久しぶりに空腹感を覚えたが、平安無事。 11月22日。断食21日目。 太陽の調息法の大切さが日に日に強く身にしみる。 11月23日。断食22日目。 昨夜から百合が開きっぱなしとなり、目が冴え、ほとんど眠れなかった。 明け方うつつに目覚めると、突然からだ中の細胞が生き返った。指先の小さな細胞の一つ一つが、自分はここで生きていると主張しはじめた。肉体の存在自体に感動させられる。 11月24日。断食23日目。 細胞の主張はとまらない。 11月25日。断食24日目。 夜、停電中にいきなり大周点が廻り始める。 呼吸法によって調整する。 11月26日。断食25日目。 細胞の声を聞く。 11月27日。断食26日目。 瞑想すると、クンダリニーの流れが逆になっていることに気づいた。尾てい骨から頭頂へのエネルギーの流れが、頭頂から尾てい骨への流れに変わっていた。無理に流れを戻さず、そのままに。 11月28日。断食27日目。 曇り空であったため、太陽の調息法が出来ず。肌寒い一日。 11月29日。断食28日目。 背骨を走るエネルギーの流れは、自然ともと通りに戻っていた。 11月30日。断食29日目。 夜中、短時間の瞑想(2時間ほど)を行う。 一氣の光から純氣の光へ。 12月01日。断食30日目。 断食を始めて1ヶ月が過ぎた。肉体は痩せ、肋骨が浮く。 調度区切りがよいので、今日で終了しようかとも考えたが、気力は少しも衰えず、精神も安定、爪の色もピンク、手足に力も入るので、もう少し続けることにした。 12月02日。断食31日目。 断食を続けることにはしたが、死ぬまで続けるつもりはないので、期間を40日と限定する。 アシュラムに居る日本人の皆さんが心配して訪ねてくれる。有り難い。 12月03日。断食32日目。 頭と心は断食の延長へ即座に切り替わったが、肉体は30日で断食を終了するつもりであったのが、久しぶりに便意を覚える。 何も出るはずはないのだがと、それでも便器に向かうと、黒飴のような便がようやく3つ出た。 12月04日。断食33日目。 静かに1日を過ごす。 12月05日。断食34日目。 空腹感もなく、時間観もなく、不安もなし。 12月06日。断食35日目。 静かな、あまりにも静かな。 12月07日。断食36日目。 このところほとんど眠気が起きず、長くても1日2〜3時間の睡眠時間。 クンダリニーを上げるやいなや、頭が冴え過ぎてしまう。 体調はすこぶる良好。 12月08日。断食37日目。 淡々と1日を過ごす。 12月09日。断食38日目。 クンダリニーの上昇によるナチュラルハイが続いてきたため、1日という時間が、ほんの小一時間程度にしか感じられなくなっていた。 時間という感覚を正常(1日24時間という常識)に会わせるために、夜少し濃いめのグルグル茶を飲み横になる。 12月10日。断食39日目。 昨夜は久しぶりに深く眠る。 午前中の太陽の調息法を終えたあと、胃に意識を向けて再活動を促し始める。 *断食明けでもっとも重要なことは、まさに食べること。断食によってほとんど胃の活動が停止しているため、いきなり通常の食生活に戻ることは、体調に重大な影響を与えることになる。 そこで胃の存在を意識することで、胃自身に本来の役割を認識させる必要がある。 食べられないのではない、食べなかったのだ。と胃に語りかけた。 12月11日。断食40(満了)日目。 食べられないのではない、食べなかったのだ。 12月12日。断食明け 丸40日に及んだ断食を終えた。 *肉体は痩せ、体力は弱まったが、気力は充実。体調は良好。終わってみると、あまりにもあっけない40日であった。 *気分的には、「そういえば、昨日は夕飯を食べなかったなあ。」程度の空腹感であった。 *まだまだ続けられるが、断食はもはや何の意味も持たないのでここで満了とする。 昼食から飲食を再開。 リンゴ半分。エネルギードリンク1杯。ダルスープ少々。 *胃が体中に広がっていく。 夕食。 昼の残りのリンゴ半分。サボジラ。グルグル茶。 *昼食では解らなかったがリンゴの味が、何とも複雑な味わいとなって口内に広がる。舌先から身体中が大喜び。 12月13日。断食明け2日目。 一度食欲を取り戻した胃は、すざまじい勢いで食物を求め始める。 *ここでの暴飲暴食は命にかかわるので注意が必要だが、数日前から胃を調整していたので大丈夫と判断し、ほぼ通常の量を飲食する。 *ただしお粥中心。昼の食物は4時間ほどでほとんど便となって排泄された。 昼食後、友人の部屋に集まってスウィートパーティー。 *インドの砂糖菓子は舌がしびれるほど甘いが、この日は西洋風に甘さを抑えた上品な菓子であった。それでも甘味が脳味噌を直撃する。 12月14日。断食明け3日目。 普段の生活に戻り、体力回復につとめる。 |
今日のパンに事欠く人がとなりにいる。今日の生ゴミに苦慮する国がここにある。飽食の時代。ダイエットという、つめこんだ栄養をはき出すだけの運動に日々汗する人々を前に、断食という行為はどのように映るだろうか? しかも40日という、一般常識では考えにくい長期間の断食では、もはや想像の域をでないかもしれない。 断食をひとつの修行とする世界は、古今東西数多くあった。 イエスが行じたエトナ山での40日の断食、釈尊が行じた60日の断食などは、多くの人が知るところである。彼ら以外にも有名無名を問わず数多くの行者が実践し、命を落とした者も少なくない。 もちろん断食期間の長い短かいが尊卑の秤(はかり)ではない。満願を迎えた者が勝者であり、途中で命を落とした者は敗者だと、決めつけることもできない。 それは40日の断食を実践した私自身が一番よく知るところである。 では行者たちは何故、命かけてまでも長期間の断食に挑むのだろうか? それは、肉体を使った修行には、知る時期と味わう期間が必要だからだ。 瞬時に時空をまたぐ光の思考にくらべ、血肉からなる肉体はあまりにも愚鈍である。しかし愚鈍ではあるが、実は何より着実なのである。それは地球のようなもの。熱しやすく冷めやすい大気の下に、熱しにくいが冷めにくい大地と海がある。 実際断食の前半は気づき連続であった。今はそれを挙げない。 が、ある朝突然、体中の細胞のひとつひとつがみずからの命を主張し始めたのを契機に、わたしの細胞は味わいはじめた。 断食が続けば続くほど、人は口からの飲食には興味がなくなる。 しかしそれと相反して、日の光・月の輝き・小鳥のさえずり・山水風花・おはようの言葉・ほほえみ・ふれあいが、実は自分という存在の根幹をささえていたことに、人は愚鈍な肉体の、微々たる細胞のひとつひとつから教えられるのである。 実際断食中の陽光は、命の源であった。 実際断食中の月光は、こころの安らぎであった。 実際断食中の自然は、命のふところであった。 実際断食中の言葉は、目覚めるちからであった。 実際断食中のふれあいは、命の滋養であった。 たとえばあなたは、老い・病床にある家族・友人を見舞ったことがあるだろうか?あるいは見舞われたことがあるだろうか? 老い・病床にある人は、知人が訪ねてくると途端に元気になることがある。それが心許せる人であればあるほど、眼を輝かせて元気になる。 笑顔ひとつで、やさしく抱きしめられたかのような。 言葉ひとつで、美酒に勝るこころもちのような。 ふれあいひとつで、食前方丈に足りたかのような。 何かに突き動かされているような、この喜びいっぱいの現れは、どこから来るのもだろうか? 疲れた自分のすがたを見せたくない心情もあろうが、実はその時、細胞は味わっているのだ。家族・友人のあたたかい言葉・まなざし・こころ遣い・ふれあいを、細胞自体がエネルギーとして吸収し、細胞自体が応えているのである。 人間。いや命という存在はエネルギーの集まりである。命は命とふれあうことで、時に足りないところを補い、時にあまるところを分け与えて、常に新らしい。 断食修行はそれを教えてくれる。弱くなって初めて体験できる命の在りようを、敏感になることで納得することができる。感謝の気持ちを道として。 実際断食中、わたしはそれを深く味わった。 |
人間というものは健康体である限り、何も食べなくても1ヶ月程度は生きられるエネルギーを、誰もが体内に備えている。 だからといって、長期間の断食をいきなり始めるのは軽率である。 長期間の断食には、それに合わせた準備と後始末が必要であるからだ。 そして何より、断食中に起こる幻想・幻覚・幻聴から、あなた自身を守る、こころのケアーが必修なのだから。 あらゆる修行において最大の障害は、肉体的なハンディキャップよりも、精神的なパニックである。 非常時において自己を見失うことが、いかに危険な状況へ自分自身を追い込んでしまうかは、事故・災害などのニュースから十分に知ることができよう。 断食修行は、命の在りようを知らしめる貴重な体験である。だがそれと同時に、命さえ落としかねない荒行でもある。 十分な注意と信頼できる指導者のもとで、医師のアドバイスを受けながら実践することをすすめる。 |
断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日・断食40日