断食・実録断食40日。今日のパンに事欠く人がとなりにいる。今日の生ゴミに苦慮する国がここにある。飽食の時代。ダイエットという、つめこんだ栄養にかなうだけの運動に日々汗する人々を前に、断食という行為はどのように映るだろうか?

安眠堂




断食40日によせて

今日のパンに事欠く人がとなりにいる。
今日の生ゴミに苦慮する国がここにある。
飽食の時代。ダイエットという、つめこんだ栄養をはき出すだけの運動に日々汗する人々を前に、断食という行為はどのように映るだろうか?
しかも40日という、一般常識では考えにくい長期間の断食では、もはや想像の域をでないかもしれない。    
断食をひとつの修行とする世界は、古今東西数多くあった。   
イエスが行じたエトナ山での40日の断食、釈尊が行じた60日の断食などは、多くの人が知るところである。  
彼ら以外にも有名無名を問わず数多くの行者が実践し、命を落とした者も少なくない。  
もちろん断食期間の長い短かいが尊卑の秤(はかり)ではない。満願を迎えた者が優れた者であり、途中で命を落とした者は敗者だと、決めつけることもできない。  
それは40日の断食を実践した私自身が一番よく知るところである。  
では行者たちは何故、命かけてまでも長期間の断食に挑むのだろうか?  
それは、肉体を使った修行には、知る時期と味わう期間が必要だからだ。  
瞬時に時空をまたぐ光の思考にくらべ、血肉からなる肉体はあまりにも愚鈍である。しかし愚鈍ではあるが、実は何より着実なのである。
それは地球のようなもの。
熱しやすく冷めやすい大気の下に、熱しにくいが冷めにくい大地と海がある。  実際断食の前半は気づきの連続であった。今はそれを挙げない。  
が、ある朝突然、体中の細胞のひとつひとつがみずからの命を主張し始めたのを契機に、わたしの細胞は味わいはじめた。  
断食が続けば続くほど、人は口からの飲食には興味がなくなる。  
しかしそれと相反して、日の光・月の輝き・小鳥のさえずり・山水風花・おはようの言葉・ほほえみ・ふれあいが、実は自分という存在の根幹をささえていたことに、人は愚鈍な肉体の、微々たる細胞のひとつひとつから教えられるのである。  
実際断食中の陽光は、命の源であった。 実際断食中の月光は、こころの安らぎであった。 実際断食中の自然は、命のふところであった。 実際断食中の言葉は、目覚めるちからであった。 実際断食中のふれあいは、命の滋養であった。   
たとえばあなたは、老い・病床にある家族・友人を見舞ったことがあるだろうか?
あるいは見舞われたことがあるだろうか?  
老い・病床にある人は、知人が訪ねてくると途端に元気になることがある。それが心許せる人であればあるほど、眼を輝かせて元気になる。 
笑顔ひとつで、やさしく抱きしめられたかのような。 
言葉ひとつで、美酒に勝るこころもちのような。 
ふれあいひとつで、食前方丈に足りたかのような。 
何かに突き動かされているような、この喜びいっぱいの現れは、どこから来るのもだろうか?  
疲れた自分のすがたを見せたくない心情もあろうが、実はその時、細胞は味わっているのだ。家族・友人のあたたかい言葉・まなざし・こころ遣い・ふれあいを、細胞自体がエネルギーとして吸収し、細胞自体が応えているのである。   
人間。いや命という存在はエネルギーの集まりである。
命は命とふれあうことで、時に足りないところを補い、時にあまるところを分け与えて、常に新らしい。 
断食修行はそれを教えてくれる。弱くなって初めて体験できる命の在りようを、敏感になることで納得することができる。感謝の気持ちを道として。   
実際断食中、わたしはそれを深く味わった。。。。。。。。。
このページから入った方はここをクリック