天河流動縁起



第一章 白老師との出会い

【光の浄化】

 気を失っていた訳ではないが、しばらくして正気に戻ったわたしは、ゆっくりと部屋の中を見わたした。

 歓世音菩薩の胸中に飛び込んてから以降というもの、帰神の状態が深ければ深いほど、そこから覚めた時、まわりの景色が異常な動きをすることが度々あったからである。

 ふすま一面に印刷されたススキの穂が、そよ風に吹かれてでもいるかのように音をたててそよぐ。木の柱が水のように光り流れる。地球の自転・公転を実際見ているかのように、部屋全体が縦横にグルグルと回り続ける。といった具合であった。

 そのような時に限って、その状態がおさまるまでは微動だにすることができなかったのだが、何度か体験しているうちに、そんな非日常的な感覚すら、実は危惧しながらも冷静に楽しむようになっていた。

 ところがその日はなにもなかった。

 その日のわたしは、愛用の安楽椅子に背もたれながら、なにを考えるでもなく、もとより帰神法を実践しようとも考えていないうちに、自然と帰神状態に入って行ったらしい。

 そしていままでとは比べものにならないダイナミックな体験を得、何とも言葉にできぬ満ち足りた気持ちでふたたび現界に戻ることができた。
なのに世界はあるがまま、なにひとつ変わってはいなかった。

 飾台に立つロウソクの薄明かりに照らされた部屋は、すでに燃えつきた香の香りにつつまれるがまま、物音ひとつ立てはしなかったのである。ただ何時ものように、見るものすべてに焦点がピタリと合い、細部まで鮮明に見えること以外は、帰神状態に入る前となにも変わっていなかったのである。

 特別な証しを期待していた訳ではない。が、その当然のごとくあるがままの景色に、わたしは深く溜め息をついた。

 頭の中に涼しい風が吹いていた。静かな気配が肌に心地よい。心臓の鼓動は普段にも増しておだやかであったが、自然に起きあがる気持ちになるまでは、動かずにいることが常であったので、わたしはかえって深く安楽椅子に身を沈めた。

 自分がいま体験してきた感覚を、もう一度かみ締めようと目を閉じた。

 だがその瞬間、

「あっ!」

 思わず声をあげて飛び起きた。

 光が、まばゆいばかりの光が、からだの中に満ちあふれているではないか。

 長い間こころの中に影を落としていたわだかまりが、跡形もなく消え去っていたではないか。

 それは生まれて初めて味わう感動であった。

 頭だけではなく、こころだけでもなく、からだだけでもなく、わたしの知るわたしのすべてをしての衝撃であった。

 頭上に広がる炎海に行く手をはばまれてからというもの、どんなに神々しい光に身を投じて恩恵に浴したところで、覚めてみれば何時もこころの中にけし粒ほどの小さなわだかまりが残り、心底満ち足りた気持ちにはなれなかった。

 原因は白老師に指摘されたとおり、完全に昇華していないこころをいたずらに解放し、そこから逃れようとするだけの誤った帰神法にあったからに違いない。

 しかし当時はそこに気付いていなかったので、けし粒を取り除くことばかりに一生懸命になりすぎ、かえって堅固なものにしてしまう悪循環におちいり、まだ余裕があるつもりではあったが、思えば実に危険な状態であった。

 現象世界での様々な異変がそれを如実にあらわしていた。
 
 白老師の手助けがなかったなら、ふたたび現界にもどることはできなかったであろうし、もどれたところで想念の燃え残りが生じ、小さく固まったけし粒のような自我に否応無く押し込まれ、狂気に憑かれて錯乱していたか、自分が何者でありなにをしているのかも自覚できないまでに放心した人間となって、世間に醜態をさらしていたに違いない。

 いまでもこのことを考えると白老師に感謝せずにはおれないが、光を自覚した瞬間、光はわたしにある気付きを与えてくれた。

 禅には修行過程と各段階の境地を、牛を飼慣らしていくという話を例にしてあらわした十牛図というものがある。

第一図・牛を尋(たず)ねる。
第二図・足跡を見つける。
第三図・牛を観る。
第四図・得牛(とくぎゅう)。
第五図・牧牛(ぼくぎゅう)。
第六図・牛に騎(の)って家に帰る。
第七図・忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)。
第八図・人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)。
第九図・返本還源(へんぽんげんげん)。
第十図・入テン垂手(にってんすいしゅ)。

 わたしは禅を学んだことはないが、十牛図には長い間関心を持っていた。

 中でも第八図として描かれた人牛倶忘の図。
 つまり人という自我ばかりか牛という仏性も忘れ、ただ大円が描かれるばかりの空という状態は、はたしていかなるものであろうかと、つねづね疑問に思っていたのである。

 空とははたして無であるのだろうか?
 無とははたして有に相対する裏面なのだろうか?

 しかし炎海をぬけて壮麗な光と同化し、さらに自分のからだの中に具したと自覚した瞬間、疑問の答えはおのずと知れた。
 いや答えがでた訳ではない。もはやそのような疑問を投げかける対象も、必要もなかったのだ。

 第八図の中に人がいないのは当然であった。牛がいないのも当然であった。

 それどころか、そもそも空という大円も存在しなかった。

 すべてが響光。影をなす光のカガヤキと光をなす影のキラメキの双方をつらぬきとおす響光が、意味もなくあるばかりであった。

 まさしくそれは光の浄化。有無という対比の範疇ではとらえきれない、明らかな瞬間であった。

 同化していく直前の意識が最後にその世界をとらえ、しかも認識できる対象として表現したなら、それは単純なうねりをともなった何物ともわかつ術のない光の響動であり、それを享受できるこころの状態が、まさに空のみなのであろう。

 実際光を体験した瞬間から、わたしの内面は大きく変容した。

 確実に明らかとなった。

 視覚的な外界に突飛な変化があった訳ではないが、あらゆる対象に対して外見だけではうかがうことができない本質が、ありありと観え始めたのである。

 新鮮な驚きと止めどない気付きが、歓喜をともなって毎瞬こころを洗浄した。
これほどの歓喜が生きて体験できるとは。
 と、あまりに激しく躍動する命をなだめることの方が難しかった。

 ところが日を追うにつれ、ある意識がひとつ脳裏を支配し始めた。

 それは光の世界をもう一度、白老師の手を借りることなく、ぜひ自分の力で体験しなおしてみたいという願望であった。

 胸中に宿った光は消えるどころか、日を重ねるごとにますます充実していた。

 だがこれを確かに自分のものとするには、もう一度、次ぎは自分自身であの世界に踏み込みなおさなければならないと感じてならなかったのである。

 いかに小さなわだかまりであったとはいえ、白老師の力を借て取り除かなければ、一歩たりともあの世界に入れなかったであろう自分を思うと、わり切れない思いがわたしの本質をとらえて離さなかったのだ。




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