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天河流動縁起 | 書籍注文 |
第一章 白老師との出会い 【天上界へ抜ける】 1 ところがある日。 一線をさかいにどうしても先行くことができなくなってしまった。 神霊方々のご神光すら薄らぐ炯火(けいか)が縦横無尽に流れ飛びかい、炎の海となって行く手をはばんでしまったのである。 鎮魂帰神法を実践し始めて二年。死後の世界を意図的にかいま見たいという当初の動機は、観世音菩薩の胸中に飛び込んでいらい次第にうすれていた。 かわって当時は、 はたして自分はどこまで意識を高めることができるか。 究極の本質にどれだけ近付くことができるか。 という自分自身の可能性を探求し始めていたのだが、そこにいたって初めて大きな障害をむかえることになった。 頭上を覆う炎海には、くっきりとした境界がある訳ではなかったが、百千万とどこまで続いているのか、先く手をうかがうことも容易ではなかったのである。 初めはまともに観ることすらできなかった。 だがどうにか観なれてくると、行く手にはなんともまばゆい洒脱した世界が確かに実在していた。しかもその世界をかいま見た瞬間、そこがいかなる存在のありかであるのかわたしは直観した。いや直覚したといった方が正しいだろう。 そこはまさしくあらゆる存在の本質の場であった。 極楽。 無極。 主たる神の世界。 道の道たる大道。 さまざまな言葉で形容されていることは伝え聞いてはいたものの、実際にその世界をかいま見て、想像の限りのものがそこにあり、想像以前のものが実在する世界であることをわたしは確かに知った。 しかもこの炎海を越えさえすれば、あらゆる煩悩から即座に解放されるであろうことも、当然の結果として認識することができた。 だがどういう訳だろうか。何度くり返しても飛び込むことができないのだ。 まだ炎の先端に触れてもいないというのに、炯圧(けいあつ)で否応無くおし戻されてしまうのであった。 その時ほどわたしは、 自己という存在ほど歯がゆい対象はない。 と感じたことはなかった。 わたしにはこれ以上の高みへ昇ることが許されていないのだろうか? これが限界なのだろうか? まさしくその炎海は、肉体的な生死のさかいであった。 境界を超越することは、我々の知る現実的な死の瞬間を体験することであり、意図的な臨終をむかえることにほかならなかった。 何故ならいったん呑み込まれたなら、とことん焼きつくされてなにも残らぬに違いないことは、火中に入らずとも容易に想像できたからである。 しかしわたしには、戸惑う気持ちなど少しもなかった。 その世界の実在を知った瞬間から、たとえこの身がどうなろうと、目前の世界に飛び込まずにはおれなかったからである。 またその瞬間から、これまでに出会った神霊たちの光栄に、まったく魅力を感じなくなってしまったからであるある日とうとう意を決し、炎海に飛び込もうと身構えた。すると。。。。。。。 |